当事者の声で作る参加型ADDメディア

当事者インタビュー

ADDタイプ(不注意優勢型ADHD)の当事者にインタビューして、日々の悩みや活用しているライフハックを聞いて来ました。生きづらい世の中を少しでも生きやすく!

【ADHD当事者インタビュー】障害者雇用で年収600万達成!家族全員発達なので今後の身の振り方を検討中です

はまぐりちゃんアイコン

はまぐりちゃん

2022.03.14

ADHDの精神障害3級で障害支援区分2の人。ドイツ系メガサプライヤーにて敢えてオープン就労に拘り続ける正社員。業務プロセス改善の特任業務に従事していました。現在は長期休職中で、復職はギリギリまで遅らせる予定。ASD児の父でもあり、妻もどうやらADHDっぽい。そんな家族全員発達障害という、ユニークな環境で日々過ごしています。公衆衛生大学院の社会人学生でもあり『職場の発達障害』について研究中です。

はまぐりちゃんからご連絡を頂き、近況を含めてインタビューを掲載させて頂く運びとなりました。

自己紹介をお願いします。

我が家は5人家族で11と10離れた2人の姉の居る、末っ子長男として生まれました。ご先祖様がウィキペディアに載っているような東北の由緒正しい家で、直系の長男として生まれてしまった為、祖父の代で親戚に家督を譲らなかったら私が継がなければいけなかったんです。本当に危機一髪だったので祖父には感謝しています。

お祖父様ナイスプレイ!子供の頃はどんなお子さんでしたか?

キレやすい癇癪持ちの子で、卒業までの間にクラスの男子全員殴った経験があります。今にして思うと完全に嫌われ者でしたが、当時は全く自覚がありませんでした。転校先の学校ではキャラ変に成功して、学級委員長を任させるような優等生タイプでした。クラスメイトが出来た子達ばかりだったのでイジメられた事はありませんでしたが、同窓会には呼ばれなかったので寂しい思いをしました。他の方が経験されているようなイジメで辛い思春期という記憶は無く、陰キャの割には充実して過ごせていたのではないでしょうか。

なるほど。お父様はどんな方でしたか?

父はADHDとASDの併発型ですね。生命保険を扱う会社で生保レディの統括のような管理職でした。年収はストレートに聞きにくいのですが、それでも推定で1,000万円は下らなかったと思います。当時の父は全く家庭を顧みない人で、家事が不向きな母に全て家の事を任せっぱなしでした。

なるほど。お母様は如何でしたか?

専業主婦の母はADHDでカサンドラだったと今になっては思います。明るいキャラではありましが、不注意で無意識に人の神経を逆なでするような地雷を平気で踏む時があり、特性が強い祖母との折り合いも悪かったと記憶しています。母自身は短大を卒業した後、地元の結婚式場に就職したようですが、組織の中で働くというのがどうも不適合だったようで半年くらいで退職に至ったそうです。

発達さん組織の中で働くの苦手な方多いですもんね。

当時の社会には『家事手伝い』という逃げ道があったので、結婚するまでの間は地元で家事手伝いをしていました。父と母は当時流行ってた文通を8年経て結婚したと聞いています。社交的な性格でPTA役員を務めたり、地域の民生委員もやっていました。ただ、今考えると承認欲求の裏返しだったのかなぁと感じる節はありますね。自分が何かしらの地位に就くことで自己肯定感を高めていたのではないかと推測します。学歴コンプレックスで人を学歴で判断する癖があり、子供心に恥ずかしい親だと感じた事を記憶しています。

ご家族で発達みが強く出ていた方はいらっしゃいますか?

家族というより一族単位でちらほら居る感じでしょうか。祖母は特性が強く、生涯親戚に迷惑を掛けまくっていましたね。主に金遣いの荒さとコミュニケーションの下手さでしょうか。人の気に触る事を悪気なく言ってしまうようで、ことごとく地雷を踏んでいました。本当に特性が強い方だと自分がおかしいとは思わず周囲がおかしいと認識するらしいんですよね。天国へ行っても特性は治っていないと思いますね(笑)。

家庭内結構凄そうですね…

姉二人は完全に父の被害者ですね。単身赴任が嫌な父は転勤の度に家族を連れて移動していたので横浜市内で小学校3回、京都市内で中学2回の転校を経験しています。長姉は猛勉強の末、京都府立の偏差値60くらいの高校に入学したのですが、父の都合で中退を余儀無くされてしまいました。「これまでも散々転校したけど、仕方ないと思って我慢してきた。でも、高校は必死に努力してやっと入学出来た学校なんだ。今回だけは勘弁して下さい」と土下座して父に頼んだようですが、暴力を振るわれ、顔面が血だらけになっても殴られ続けたようで、自分には優しかった父の別人の様な一面を知りました。

壮絶ですね。

その後、長姉は地元銀行、次姉はアパレルの会社に就職しましたが、ブランドを気にする父は、長姉が地元地銀に就職したのを大歓迎した半面、次姉の就職についてはアパレルの知識が疎いので「お前には何の魅力もないな」と本人に面と向かって言い放ち、家族は不快な思いをしていました。

はまぐりちゃんに対してお父様はどうでしたか?

私だけ「代々直系の長男だから」という理由で過剰なエコ贔屓をされていた様ですね。過保護に育てられた私は結局大学にすらに入れなかったので、姉達の理不尽さは底知れないものだったと痛感します。長姉は歳の離れた無邪気キャラの弟はかわいい反面、自分との理不尽な扱いの格差に憎悪に似た感情を抱いてしまっていた。と先日初めて聞かされて絶賛混乱中です。

衝撃の過去ですからね…はまぐりちゃん自身の幼少期のエピソードがあれば教えてください。

歳の離れた姉に囲まれた環境で生育した影響もあってか、歳の割に物事に対する理解が早かったようです。2歳くらいで姉のラジカセを自由に使いこなせるようになり、ポンキッキの曲をよく聴いてました。4歳になる直前には日航機墜落事故があり、連日ニュースで報道されていたのですが、子供ながらに事故に至ったプロセスが理解出来てしまい衝撃を受けてしまったんですよ。一方で家族は幼児にして事故についての原因を正確に把握している事に違った意味で衝撃を受けたようです。

高IQならではのエピソードですね。

早熟過ぎる一面を見せる一方で、集団との協調性については幼稚なままでした。今から思うとチグハグな発達障害の特徴がよく表れていたと思います。昭和の時代は発達障害の概念が無かった為「早熟な面はある一方で自分勝手で我が儘な個性的な子」という評価で済んでいたとようですね。

他の方のエピソードでも「昭和の方が生きやすかった」は割と聞きますね。小学校ではどんな学校生活を送っていたのでしょうか?

低学年のうちはまともに授業を受けられる子供ではありませんでした。授業中、勝手に立ち歩いたり奇声を上げたりする問題児集団の一人で授業には全くついていけてなかったです。幼少期のエピソードから「うちの子は秀才に違いない」と思っていた母は、相当なショックを受けたようです。学校に行っても授業は解らないし、クラスのお友達とは話が噛み合わず、いつの間にか大喧嘩になってしまって一方的に自分だけが怒られるんです。当時は冷静に自分の気持ちを説明する事が出来ずに感情が先走りしてクラス担任の頭を椅子で殴りつけた事もありました。

すごい(笑)。結構な問題児ですね。勉強に目覚めた転機があったのですか?

(※この辺から公文式の話になります。) 小1の夏休みから始めた公文式で劇的に流れが変わりました。入会キャンペーンで珍しい消しゴムが貰えるという子供特有の好奇心で母に頼み込んで通い出しました。最初は一桁の足し算からのスタートでしたが、通うにつれて算数、特に計算速度が劇的に向上し、学校での成績も急上昇していきました。算数に引っ張られる形で不思議と他の科目も安定するようになり、ほぼ毎回100点が取れるようになりました。今になって考えるとADHD特有の過集中と衝動性起因の瞬間的な閃きがによる効果で、今になって当時を振り返ると、総合的に安定した学力が公文式で得られた訳ではなかったのではと思います。実際、計算はクラス最速でしたが、文章題や論理的思考が必要な問題になると、中には一度つまずくとなかなか正解にたどり着けず、逆に周りから教えてもらうという逆転現象もありました。

(公文式続き)

小学校高学年では微積が解けるようになり、県の学力ランキングに載った事もあります。これはあくまでも私個人の経験を振り返っての話ですが、幼少期に公文式をやらせることは「本来自然なペースで成長していく知能をトレーニングで強制的に前倒しさせているのではないでしょうか。イメージとしては身長の成長と似ている感じがします。小学生の時に背が高くても、大人になったらむしろ小柄だったり、昔は小柄だったのに思春期で一気に背が伸びる子もいたり、伸び方って人それぞれですよね。知能の成長も本来はそういうものなのですが、それを強制的に前倒しさせてしまうと、その後の成長は早めに止まってしまうので、後からどんどん周囲に抜かれてしまう……というのが一経験者としての仮説です。ただ幼少期に失敗経験や挫折経験を得やすいADHD児にとっては、一時的とは言え成功体験や達成感の積み重ねは確実に得られる機会にはなるかと思います。(※公文式終わり)

微積の言葉ですら高校入学まで知らなかった私とは大違いです(笑)。ご自身のADHDっぽさはどんなところで感じますか?

普段から日程管理が全く出来ないんですよ。長期休みの宿題が計画的に進められず家族総出で毎回なんとかしてもらっていましたね。その一方、こだわり出すと止まらない発達特性も持ち合わせており、「大気圧を可視化する」という自由研究で県の最優秀賞に選ばれた経験があります。内容は夏休み前に突然閃き、事前に先生に頼み込んで特別にフラスコなどの学校の備品各種器具を夏休み中に貸し出しさせてもらいました。閃きで始まった自由研究は衝動性全開で、この時だけは夏休み開始1週間くらいで終わらせました。最優秀賞の表彰式は日付を聞いておらず、気が付いたら無断欠席というオチがあります(笑)。

一人で完結する実験は出来たりするのですよね。運動で残した成績などはありますか?

私はめちゃくちゃな運動音痴で運動音痴芸人に匹敵するレベルなんですよ。DCD(発達性強調運動障害)を併発しているので未だにキャッチボールすらまともに出来ません。飛んでくるボールの距離感が測れず恐怖でしかないのでドッジボールもトラウマですね。当時は出来ない持久走を応援されるのも嫌で「早く終わらないかなぁ~」と思っていました。好きで残っている訳では無いのですよね。

体育教育がトラウマになる子どももいますよね。小学校時代はお勉強に苦労は無かったようですが、中学高校ではいかがでしたか?

中学で最初の入部は運動音痴の典型で科学部でした。1年の夏に同じクラスに彼女が出来て、止めときゃいいのに無謀にも彼女と同じバレーボール部に転部しました。ド下手なのに一生懸命頑張っているという評価で、奇跡的に彼女からの評価は下がらなかったのですが、バレンタインデー関係でトラブってしまい、それがきっかけで振られてしまいました。それ以降は元々特にバレーボールに興味があった訳でもないし、元カノと顔を合わせ辛いしで、幽霊部員になりました。後悔しかないです。高校時代は本気で小説家を目指していて、当時流行っていたパラサイトイブという小説に感銘を受けて、理系をバックグラウンドにした小説を書きたかったんですよ。理系に進学すれば小説家になれなかったとしても就職に困らないと考えていたので。

「理系は潰しが効く」と私も母に言われていた記憶があります。勉強は相変わらず得意だったのでしょうか?

ADHD特有の日程管理の出来なさが相当なハンデで中学から徐々に状況は逆転していきました。計算は得意なものの、論理的な考えに難があり理系の科目にも苦手が出てきてしまいました。中学入学当初は、当然県の公立トップ高に入るのが当然と自分も家族も思っていたのですが、結局ギリギリで中堅クラスの公立校に合格する事が出来ました。

スケジュール管理の苦手さは勉強にも響いてくるのですね。アルバイトなどされた事はありますか?

学校の紹介で倉庫のピッキングをした事があります。全然出来なくてパートのおばちゃんに怒られてましたね。幸い私がほっとけないタイプだったようで、使いものにはならないけどクビになる事は無く周囲に助けられていました。あとはリーマンショックの時、一時的に副業が解禁されたのでコンサート会場の設営と佐川急便のアルバイトをしたことがあります。本当に要領が悪く、こんなに出来ない人は初めてだ。と驚愕されました。日雇いじゃなかったら確実にクビになってましたね。

発達あるあるですね。大学には進学されたのでしょうか?

大学側から拒否されて出来なかったんですよ。私は地元の国立大学に進学する気満々だったのですが、2年連続お断りされてしまったので、1浪を経た後に諦めて職業訓練校に入校しました。職業訓練校は環境が合っていたようで伸び伸び過ごし就職も推薦で決まりました。主席卒業での入社で新入社員代表挨拶まで務めましたが、期待とは裏腹に全く仕事の出来ない社員に成り下がりました。与えられた仕事を終わらせるのに異様に時間がかかってしまったり、成果物も指示と違うものを作ってしまったりで入社2年目の冬にデスクワークの技術職から3交代制の製造オペレーターに異動させられました。

出来なすぎて部署異動は発達エピソードでわりと聞く話ですね。

異動した先の製造業でも私の特性は大きく足を引っ張ることになります。製造は製造で頭を使わなくて済む仕事では決して無いんですよね。不注意で1ロット全数規格外にしてしまってNGにしてしまうことも度々ありました。それに加え、毎週生活サイクルが変わるという3交代生活で生活リズムを整えられなくなってしまい不眠症でメンクリ通いが始まりました。製造オペレーターに異動した現状に満足していなかった私は、夜勤をこなしながらも転職活動を進めていました。経歴を盛りに盛って現在の職場で内定をGETします。

良かったですね。内定おめでとうございます。

当時の私は最終面接で逆圧迫面接をかますとんでもない野郎だったので、面接官は随分びっくりしたと思います。デスクに同業他社の採用通知をバンと叩き付けて「私は既にこの会社から内定通知をもらっています。この会社への内定受諾回答の締め切りは本日です。ですが私の本命は、あくまで御社です。今、ここで即決して下されば、この会議室から携帯でこの会社に内定お断りの電話を入れます。」というとんでもない発言をしていました。衝動性も使いようですが読者の方にはオススメ出来ません(笑)。本当にヤバい奴だったのですが、そこを気に入られたのか特例中の特例で即採用となりました。

外資だと個性豊かな方は歓迎されるかもしれないですね…

即採用されたものの給与交渉の機会を逃してしまい、初任給は相当買い叩かれてしまったのが内定後の後悔です。同期との給与差が10年程埋まらなかったので派手なパフォーマンスも程々にしておいた方が良いという学びになりました。

転職先はいかがでしたか?

華々しく2社目への転職に成功したものの、そこで壮絶なパワハラを経験しました。2006年当時は今ほどコンプライアンスが普及しておらず、当時私のメンターとなった上司と折が合わず、研修後の本採用見送りを検討されるような有様でした。入社試験で専務の肝入りで採用されてしまいクビにするわけには行かなかったので首の皮一枚で繋がりましたが、日々繰り返されるパワハラで解離性健忘を起こし2年分くらい記憶が飛んでいます。

解離あると記憶飛ぶって言いますよね。

パワハラ上司に「てめえマジで頭イカれてるんじゃねーのか!」と言われたのを言葉通り真に受けて、近所のクリニックの紹介で大学病院の精神科で脳波測定などの精密検査を受けたのですが、ここでも異常は見つからず、発達障害は検出されませんでした。病院での検査結果を報告したのですが、その際の発言と一連のパワハラが問題視され、上司は子会社に転籍、私は現在の勤務地である横浜の開発センターに異動となりました。

パワハラ上司と離れられて何よりですね。

このままの勤務を続けていたら死んでたと思います。異動先は品質保証部という故障した製品の調査解析部門でした。こちらには7年程在籍し異動と同時に私のメンタルもすっかり回復しました。異動してきて解った事なのですが、他部署で問題を起こした人が送られる部署で発達みが強い社員が多かったですね。個性的な社員に囲まれ、私のADHDが問題視される事はありませんでした。それどころかADHD特性を不具合原因の洗い出しに活かすことが出来たり、他の人が気が付かないような故障原因を瞬間的に見抜くという才能が活きる場面もありました。

評価は上がりましたか?

相変わらず日程管理は出来なかったので、調査報告書の提出締め切り遅れを連発する問題も多々ありました。大きなプラスよりもマイナスが無い方が評価されるので、努力は認めるものの、期待値には少し足りていない評価を受ける事が多かったように思います。

足りない部分を埋めるのは発達にとって至難の技なのですが理解するのは難しいでしょうね。発達の診断に至ったきっかけはどのような事だったのでしょうか?

2013年に担当製品と一緒に営業に異動した事がADHD発覚のきっかけとなりました。営業は社内の花形部署であり能力の高い人物で無いと務まらないんですよ。提案した部品が採用されれば最終的に億単位の売り上げをもたらすことになります。弊社の場合、マネージャーは大体営業出身者ですし、会社としてはチャンスをくれたのでしょうが、そんな環境についていけるような能力は当然持ち合わせておらず、苦手な日程管理や注意欠陥による見積書の誤記で大きく信頼を失う結果となってしまいました。

苦手な要素が集まると強みは発揮しづらくなりますよね。

息抜きでまとめサイトを巡回していたところ、たまたまネットで目にした「暇人速報」というサイトでADHDの存在を知る事となりました。ADHD民にはお馴染みのストラテラ(アトモキセチン)ですがこの薬、元々は18歳未満向けの処方薬だったんです。それが2012年8月に18歳以上の成人にも保険適用が承認されました。それもあり当時は、製薬会社のイーライリリーがストラテラを売り出すために億単位の巨額投資をして大々的なキャンペーンをやっていたんですよ。HPでADHDセルフチェックで全ての項目に当てはまったので自分は発達障害であると確信しました。

ADHD民やると全部当てはまるやつですよね。検査はどちらでされたのでしょうか?

以前通っていたクリニックにコンタクトしたところ、成人期になってからの発達障害の診断は極めて難しく、当時は街のメンタルクリニックの殆どでは診断が出来ないということを教えてもらいました。そこで地元の発達相談支援センターに電話をして、現在まで通っているクリニックに繋いで貰いました。「きしろメンタルクリニック」では5種類もの心理・知能テストを使って検査したのでだいぶ正確な記録が出たように思います。

5種類もテストを受けた方は初めてです。内容を教えてもらっても良いですか?

受けたテストは①発達特性を測るためのCAARS、②知能テストのWAIS、 ③ASD特性を測るためのAQーJ 、④統合失調検査の風景構成法、⑤性格検査のロールシャッハを受けました。きしろメンタルクリニックの先生は第一印象が悪い意味でぶっ飛んでいるのですが、精神心理士を持っている私には先生の行動が理解できるので説明なく投薬変更などがあっても問題なく通院しています。

検査結果って聞いても良いですか?

私はIQの高いところと低いところの差が16でぎりぎり診断が付くレベルなんですよね。一番低いワーキングメモリでも100を切っていませんが仕事には支障があるんです。聴覚記憶が苦手で議事録が書けないし、議論が白熱してくると流れについて行けず話の腰を折ってしまいます。コミュニケーション能力はあったので、お客さんに議事録の作成を丸投げする事にも成功したのですが、今になっては正解だったのかよく解りません。職場では対人関係のトラブルが目立っていたのでASDもあるかと思っていたのですが、AQーJの値は25点とASDに該当せず、ADHD由来のトラブルであることが解りました。

お話しててASDっぽさは感じたのですが、ADHD単体診断なのですね。

はい、単体ADHDです。職場の上司にADHDの診断が出たことを話すと「障害が発覚したら部署から追放されるからなんとか乗り切れ!」と言われてしまって自分で工夫する他無かったのですよね。1年程で営業部署から自主退職勧告を貰い、障害者であることを打ち明けて量産準備担当に異動になりました。苦手が無くなった分、評価としては平均を貰えるようになり、現在は障害者雇用ながらも部下を持つ事が出来ました。

おめでとうございます!職場での地位も安定して来たのですね。

ところが、やってきた部下が無自覚の発達のようで、私自身が結構なストレスを抱えてダウンしてしまったんですね。産業医面談を重ねるようになり、適応障害で長期休暇を余儀なくされました。今回部下を持ってみて感じたのですが、無自覚発達の部下を水面下で操れる程器用な人間ではないのでマネージャーとしては不適正なのでしょうね。今後の身の振り方も考えて傷病期間を過ごそうと思っています。

大変だったのですね。傷病期間中はお家で何かされているのでしょうか?

妻がフルタイムのパートで働いているのでASDの子供の面倒を私が率先して見るようにしていたのですが、なかなかストレスが強く思い通りにならない事に疲れてしまっていますね。仕事だけでなく家庭にも適応障害の原因はあるようで、主治医からは「この家を出ないと君の適応障害は治らない」と言われていてショートステイの準備を進めています。

ショートステイは時間もお金も掛かるし大変ですよね。お家は大丈夫ですか?

障害福祉サービス受給者証を取っているので格安でショートステイも利用できるんですよ。精神保健福祉士を持っている私としては障害者手帳の前にサービス受給者証を推したいですね。ヘルパーさんが来て掃除や料理を手伝ってくれるので生活のQOLが変わりますもん。妻もどうやらADHDっぽさがあり、IQがあまり高くない事も手伝って家事がとても苦手なんです。私がショートステイに行くまでにサービス受給者証は取らせたいんですよね。最近は発達の検査がとても混んでいるので、どうなる事か分からないのですが…

家族全員発達だと片付かない問題は出てきますよね。お薬は何か飲まれていますか?

今は適応障害の薬だけで発達の薬は飲んでいないんですよ。働いていた時はストラテラをMAXで飲んでいて調子良かったのですが、インチュニブの治験に参加したところ体重は10キロ増えるし、毎日眠く、何故かストラテラが効かない体質になってしまったんですね。仕事に関しては積み上げた工夫で乗り切っていて服薬無しで問題無かったのですが、ストラテラが効かなくなってしまったのはショックでしたね。今は双極性障害も入っているのでコンサータはNGの提案が主治医から来ています。

薬で体質変わるのは怖いですね。精神保健福祉士を目指したのにはどういった背景があったのでしょうか?

2018年に法定障害者雇用率が2.2%に上がった時、弊社に精神保健福祉士が入って来て、発達障害の私に精神保健福祉士の資格を取る事をオススメしてくれたんですね。ADHDの衝動性でその日のうちに願書を取り寄せ、週末には入学手続きを済ませていました。まさか自分が福祉大に入学する事になるとは夢にも思ってませんでしたが、仕事との両立しながら無事に国家資格も取得する事が出来ました。福祉大では相手への思い遣りや理解、そして物事全体を俯瞰的に見る技術を身に着けることが出来たように思います。

なるほど、去年は障害オープンで転職活動をされていたのですか?

障害をウリにしたいと思ってオープンで活動していたんですよね。履歴書の資格欄に精神障害者3級と書いていました。クローズ就労もしようと思えば出来るのですが、他の人と違ってクローズで働くメリットが自分には無いと感じているんですよ。オープンにしないと『人を巻き込む事で、本来の自分の能力以上のパフォーマンスを出す』という自分の特徴が活かせないのであえてオープンで転職活動をしていました。

自信の現れですね。転職活動ではどのようなプロセスを踏んだのでしょうか?

障害者雇用専門のエージェントに登録したのですが、担当者によって能力の差があまりに大きかったです。希望年収650万円以上の案件を持って来られないし、「模擬面接練習をしましょう。」というので付き合ってみたら、余りの質問のレベルの低さに途中からブチ切れてしまって恫喝まがいの逆圧迫面接になってしまいました。結果的に一番良かったのはLinkedInでプロフィール公開することでしたね。毎日10以上はスカウトが来ていたので手応えは感じていましたが、経歴が自動車業界に偏り過ぎていて製薬会社からのオファーが全然なかったことはショックでした。今は体調が良くないこともあり、一旦転職活動はストップ中ですね。

体調第一にご自愛ください。発達民に伝えたいことがあればどうぞ!

Twitter上でいろんな情報が飛び交っていますが、あまり自分で向上心を持って頑張ろうと思わなくていいと思っています。自分の努力で何とか出来ないから障害な訳ですし、「自分の成長は諦めて、人の手を借りる技術を身に着ける」という割り切った考え方もありだと思うのです。以前はオープン就労のインフルエンサー的な立場を目指したいと思っていましたが、ライフハックや成功例を発信している当事者を見ても承認欲求を満たしているようにしか映らなくなってしまったんですよね。それ以来、社会全体の中で自分がどう生きるかに軸をシフトして行っています。

発達障害って社会問題になってきてますしね。

私自身が現在就労不能になっているのを父が酷く気にしていて「この先どうするんだ?」的な電話をよく掛けて来るんです。次姉曰く「それは息子を心配しているのではなく外資で働けなくなった息子には、もう存在価値がなくなってしまう。だから早く地元に戻れ」というロジックで「戻って来い」と言っているようなんですよね。長姉は社内結婚して息子が生まれましたが、2E感がある子どもで非常に苦労していますし、認知症の症状が出始めた両親の面倒を見ていて頭が下がる思いです。長姉自身も身体の病気がある様なので私一人の問題では無くなってきていますね。

今後の展望があればお願いします。

私は後出しジャンケン型オープン就労です。ここ5年程ずっと590万円台で足止めを食らっていたのですが、去年の年収はでようやく600万円を超えました。障害者雇用として考えれば破格の年収ですが、社内の年齢別平均年収だと40歳の平均値より若干低いんです。オープンだと職業選択が限られたり、年収が大幅に削られたりしてしまう現実があるので精神保健福祉士の資格を活かしつつ障害者雇用の未来を変えて行きたいと思いますね。

今回のインタビューの感想をお願いします。

自分の過去を振り返り過ぎて、実は少しメンタルに来てしまったようなんです。元々は無邪気なADHDの私が、入社後の経験で過剰な神経質と杓子定規に決められたルールに拘る疑似ASD要素が生まれてしまったんですよ。解離性同一性障害の診断は出ていませんが、最近は自身の中で2つの人格が存在する事を認識しています。① 注意欠陥トラブルが発生してしまい、他者とのコミュニケーション困難を抱えておどおどしてしまう人格と、② 短気、衝動的で自分より上の立場の人間に対して高圧的な態度を取る人格の2つですね。心身共に元気になれる様に発達の治療と併せて頑張って行きたいと思います。

貴重な情報ありがとうございました!40歳にして濃すぎる会社員生活を歩むはまぐりちゃんでした。

編集後記

早くに療育に出会っていたらメンタル面も含めて自身のケアが出来たのではないかと思ってしまうインタビューだった。持っている素材が良いからこそ自分に対する期待値が上がってしまい、緩く生きれない苦しさが募るのでは無いかとお見受けする。専門職でなくても会社員という枠に嵌まらず世の中で活躍出来る時代をはまぐりちゃんが作ってくれると個人的に期待している。