文脈解析家。メンタル話し相手。ほしをみるひと。 #INFP #ADHD 診断済み精神3級。うつサバイバー10年選手。後ろに向かって前向きです。ライフはハックしない。石をちょっと格好良く積む。緑A14転色組、KSL陣営。
診断はADHDなのですが、子どもの頃はエピソードはASDちっくなものが多いんですよ。学校の体操着は雑巾と同じでいくら汚しても良いものだと思っていたので、鼻をかんだり、食べこぼしも絵の具も体操着で拭いていましたね。洗っても取れない汚れもあるのでどんどん茶色くなっていったのですが、ASDで「自分の感覚が大事」なものですから周りに何を言われても「洗っているので清潔だ」と信じて疑わなかったんですね。定型の子だったら自分の感覚より周囲の意見を優先するんでしょうけど、他人の基準をあてにしていなかったので不潔な印象があったと思いますね。
そんな子クラスに1人はいた気がしますね。ADHDっぽいエピソードってありますか?
忘れ物はめちゃくちゃ多かった事です。小学校が忘れ物に厳しくて忘れ物グラフがあったのですが、いつもブッチギリの1番でした。前日にランドセルの中身を指差し点検するのですが毎日何かしらの忘れていて確認が意味を成していませんでしたね。いつもびっくりイリュージョン状態なので「カバンの中に何入ってるの?」と教師にも呆れられていました。
筆者の子ども時代と一緒です(笑)。お父様はどんな方でしたか?
父はADHDとASDが強烈に入った発達丸出しの人間ですね。家庭の問題でネグレスト気味に育ち、悪化したコミュ障で問題を多く起こしていたので幼稚園を退園になっています。のび太型の僕と違って父親はジャイアン型ですから人とのトラブルは避けられなかったんでしょう。勉強は出来たので一流大学を出て、大手出版社に入社というエリートコースで時代的には発達がハンデになりづらかったんですよ。家では片付けの苦手さを発揮して常にデスクは本や書類で埋もれていました。会社でも困っていた同僚は居たと察しますね
デスクの書類に埋もれて作業してる人、職場に必ずいますね。他のご家族はどんな様子でしたか?
母も若干ADHDの気はあるので片付けは苦手でしたね。家事の努力はするものの器用にこなせず四苦八苦していました。自分の子供を謙遜する事をせず、いつも褒めて育ててくれた事に感謝しています。日本の謙遜の文化には僕も疑問を抱いているので、周囲に同調せず「自分の子供を褒める事」を貫いてくれた母に頭が上がりません。兄弟では2つ下に妹が居て、家族の中では妹だけがド定型ですね。特に何かが出来る訳では無いが苦手も無いバランス型で発達の僕の事を理解出来ず、数年前まで仲が悪かったんです。子供のASDが発覚した事やコロナで社会不安に陥り、占星術に興味を持ち始めてから急速に距離が縮まりました。
兄弟間でも共通点が多い方が仲は良くなりますよね。勉強は得意でしたか?
教科によって凸凹が凄かったものの比較的得意でしたね。父方の家系に早稲田が多く、勉強熱心な家だったので小4の時から進学塾に通っていました。土日も模試で忙しく友達と遊んでいる暇は無かったです。当時は勉強が非常に楽しかったのですが、数学の苦手だけがどうしても埋まらず、高望みも相まって中学受験に失敗していますね。公立中学に進んでからはイジメの的になり、同級生・先輩・先生のすべての人にイジメられていました。もともといじめられやすい要素はあったものの学生時代で一番の暗黒期でしたね。部活には居場所があった為、かろうじて不登校にならず高校にも無事進学出来ました。
成績凸凹は毎度発達さんのエピソードに登場する鉄板ネタですね。
WAISの時には言われなかったけど僕多分、算数LDあるんですよ。一番低い計算と符号のIQが104で他より大きく凹んでるんです。他とバランスが取れないので大きく足を引っ張る要因になっているのかもしれないですね。算数って脳に染み付かせる反復練習みたいな体育っぽい要素があるじゃないですか。ああゆうの苦手なんですよ。大枠が解れば良くて繰り返しの作業は他の人がやれば良いと思ってしまうんです。僕は繰り返しより次々と新しい事がしたいかな。ADHD特有の飽きっぽさから習熟出来ないんですよ。後々の人生でも僕の人生に大きく影響してきています。
新しいことがしたい気持ち解ります…苦手でも104だとLDには該当しないんですよね〜。学生時代にアルバイトはされていたんですか?
高校生の時は周りがお坊っちゃまばかりだったのでしなかったですが、大学に入ってから本屋でアルバイトしていました。時給は激安ですが業務は楽で発達特性での苦労はありませんでしたね。おそらく店番的な意味合いで雇われていた感じでうるさく何かを指導されたりも無かったです。時給550円は当時でもあり得ないほど低かったので最低時給を下回っていないのか他人事ながら心配になってしまいました(笑)
新卒で出版社に入社を目指し大学3年の頃から校正の学校に通っていました。父が編集者だった事もあり、勧められた専門学校で本作りの基礎を学びました。DTPが最先端の時代で編集や原稿整理など業務に必要な知識を学校の授業と並行して詰め込みました。僕は高校から大学への内部進学テストに落ちたので三流大学に進学したんですよ。就活の蓋を開けてみると、当時は今以上に学歴重視の時代だったので出版社は書類落ちがほとんどでしたね。結局、内定が出たのはゲーム系の雑誌出版社で4年生の10月からインターンとして入社しています。
ところがですね、後期の期末試験と色校が重なり、試験日の変更に気づかず留年をしてしまって内定が取り消しになったんです。学校に通いながら1年間アルバイトとして勤務する事になったのですが、既に下っ端の仕事に飽きが来ていてやり甲斐を感じなくなっていたんですね。怠け癖が出てしまって後半の半年は机に突っ伏して寝ていたら、当然の如くクビになりました。情けない事にこの時が人生で一番お金を稼いでいたかもしれません。残業がとても多い業界でしたしバブル真っ只中で景気が良かったんです。
まあ、寝てたらクビになりますよね。その後はどうされたんですか?
新聞で見た求人の出版社に応募して歌舞伎町の出版社に正社員採用されました。ビジネス啓発本を出版している超ブラックな会社ですよ(笑)。仕事としての成長なんて望めるわけがなく早々に退職を考えていたのですが、なんやかんや2年程在籍してしまいましたね。辞める時に「長く務めたもんな〜」と言われて改めてブラック企業なのを悟った形ですね。声が大きいほど褒められる謎の社風で会社全体に「やってらんねーぜ」の空気が染み付いていました。よく2年も続けたと自分でも思っています。
感覚が麻痺してたんですよね。新卒からそんな業界にいるとそれが当たり前になってしまっていたんです。懲りずにまた違う出版社に入りました。面接のデスクに綾波レイのフィギュアが飾ってあり運命を感じて入社したのが運の尽きでしたね。半年で大鬱になり疲労と睡眠障害から持っている薬全てをODして入院になりました。その後、寛解に10年以上費やしています。
2年くらいは死ぬことしか考えてなかったんですよ。「生きていることが人生の失敗体験」だと当時は思っていました。今日も生きてしまった事への後悔が凄いんです。夜が明けると次の日になる事が恐怖で、逃れられない絶望感から何度か首も吊りましたが詰めが甘く失敗しています。
「次の日が来るのが怖い」ってだいぶ追い詰められた人の思考ですよね。転機はいつでしたか?
数年後鬱が寛解したと思い、親に頼んで中国語の専門学校に行かせて貰いました。
成績は優秀でしたが、就職が無かったんですよね。中国語での就職を諦めて在学中に知り合った元妻のところに転がり込んで同棲しているうちに結婚しました。出版業界繋がりという事もあって気が合ったんですよね。ADOBEのイラストレーターが使えたことからイラストの仕事を妻から振られて10年くらい自宅でフリーランスとして活動していました。
はい。妻から仕事が降りて来ない時はアルバイトを行い、なんとか食べれてしまったのでイラストレーターとしての営業努力をして来なかったんです。子供も産まれて育児も忙しく、充実していたのですが、ある日アルバイトから帰宅すると妻と子供が居なくなっていたんですよ。いつまでも定職に付かずイラストの仕事にぶら下がっている僕に業を煮やしたのでしょう。もう7年子どもと会ってないんですよ。とても頭の良い子なので上手にやれてると思いますがもう一度会いたいなぁ
ショックですよね。元妻からイラストの仕事が降りて来なくなったので、知り合いに紹介して貰った医療事務の仕事を始めたんですが、半年でクビになってしまいました。まだこの時、発達障害が解っていなかったので落ち込みましたね。
医療事務の仕事をクビになってイングレスってゲームを始めた時ですね。Googleマップで陣取りをしていくゲームなのですが、ユーザーコミュニティの日本支部創設に携わった時にてんかん持ちの人がいて、発達の話になったら見事に自分の事に当てはまっていたんですよね。WAISをすぐに受けることにしました。
さすがの行動力!発達さんこうゆう時は何故か先延ばししないんですよね(笑)
WAISの結果と問診でADHD真っ黒だった訳ですが、イングレスコミュニティのみんなは僕が発達である事にとっくに気づいていたようで驚いた反応は見られませんでしたね(笑)。自分の事に対する鈍感さを改めて思い知りました(笑)。その後は、イングレスコミュニティの時と同じく発達障害の繋がりを求めて発達障害バーやカフェに出入りするようになりました。ここで知り合った方とは今でもご縁があり仲良くしています。
ナウゼりんさん大変お顔が広いですからね。お仕事はどうされたのですか?
自分が障害者だと解った事で一般枠での就労から少し離れ、障害者就労を目指し就労移行支援に通うようになりました。建築の設計事務所に去年まで障害者枠で在籍していましたが、やっぱり自分のやりたい事とは違うんですよね。自分のやりたい事を追求するために「ナウゼりん活動」の構想を胸に退職しました。
…(なんか難しいぞ?)「ナウゼりん活動」を行う上でネックになっている事はなんでしょうか?
仕事とお金が無い事でしょうね。この歳になってお金を貰って働くのがおかしいと思ってしまう自分がいるんですよ。理屈では解っていても気持ちがついて来ないんです。ある日、神
が降りてきた瞬間があって「社会全体の呪い」を解く事が僕の使命だとお告げを下さったんですね。世の中って主人と奴隷みたいな構図じゃ無いですか?仕事に例えると、この場に留まり続けて服従する必要はないと感じたので退職したんですよ。
なるほど。どういった形で「社会全体の呪い」を解こうと思っているのですか?
僕が伝えられる事を人に伝えていきたいですね。上級カウンセラーの資格も取得したので現在はカウンセラー活動もしています。離婚後は実家に戻っているのですが、実家に人を呼ぶ事も出来ないしカウンセリング活動で区切られた場所も必要だと思っているので、場所を借りる為のお金が掛かるんですよね。
なるほど。何かを始めるにもお金は必要ですよね。ご自身の特性での強みは何でしょうか?
一言で言うと「文脈把握能力」ですかね。興味があれば複雑な論文も難なく読めるし、相手にわかりやすく話すことも得意なので自身の強みになっています。あとは「拡散思考」かなぁ。子どもの頃から科学は不可能を可能にできると思っていた節があって科学者になりたかったんですよ。当時は魔術師のイメージで言っていたんでしょうけど今でも世界を変えることには興味があります。
これもナウゼりん活動の一環なのですね。今後の展開を教えてください
今48歳の僕が60歳になるまでに世の中を変えたいと思っているんですよ。自分の構想を形にするコミュニティを構築する事が「ナウゼリん活動」の目的ですね。僕の生まれた時はベビーブームで人口がすごく多い世代なんです。定年を迎えた後は世間に対する発言権が弱くなる事を懸念しているので、リミットは60歳になる2033年です。自分が死ぬ時までに発達も含めて「社会全体の呪い」を解かなくてはいけないので焦っていますね。
ありがとうございました!「ナウゼりん構想」まで聞けると思わなかったので驚きでしたね!活動応援しています!
編集後記
「高IQの人世の中からなかなか理解されない問題」に突き当たった気がした。「全体像が解ると興味をなくす飽きっぽさ」や「繰り返しの訓練の億劫さ」など筆者にも当てはまるお話に少し耳が痛くなった。「継続は力なり」は発達にも当てはまる話だと思うので地道に努力していきたい