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当事者インタビュー

ADDタイプ(不注意優勢型ADHD)の当事者にインタビューして、日々の悩みや活用しているライフハックを聞いて来ました。生きづらい世の中を少しでも生きやすく!

[ADHD、ASD] 発達障害で自分の事が解らず、43年間暗闇を彷徨っていた人生に光が指しました!

当事者インタビューみやさん

みやさん

@gallo38

2021.04.19

『ハピネス(他人軸)』を手放し『ウェルビーイング(自分軸)』に変わった人/43年間友達ZEROから生きづらさZEROに大変身した人/大人の発達自助会主催(#異才IROIRO)/国家資格キャリアコンサルタント(@kh361IBAv4kdi5E) /FP1級/座右の銘は【みんな普通で、みんな変】/DMはお気軽に

43年間友達無し!と仰るみやさんにインタビューして来ました!

子供の頃はどんなお子さんでしたか?

幼馴染の金魚の糞でしたね。コミュ障な僕は自分で友人が作れず幼馴染にくっついてただけでした。発達障害が発覚するまでの43年間友達が居なかったんです。僕のコミュ障の原因の1つは母親でしょうね。元高校教師の母親は寿退社したのをきっかけに教育に心血を注ぐようになりました。エリートに育てなきゃという一方的な思いが強かったんでしょうね。長男として母のスパルタ教育の標的になった僕は、度重なる暴力や折檻が日常でトイレに鍵をかけて閉じこもるようになっていきましたね。家庭や学校にに居場所が見出せず、子供時代は薄暗いトンネル半生の始まりでした。家の決まりで、朝10時までに学研を終わらせないと近所の子と遊びに行く事が許されなかったんですよ。親父が職場のストレスを母にぶつけて母は僕に八つ当たりをし、僕は弟をイジメるという負の連鎖でしたね

なかなか社絶ですね

母も病んでいたんでしょうね。ド発達で精神もしょっちゅう病んで、宗教にハマり込んでいた時期もあります。自分は散々人の悪口を言ったり、差別をする割には「差別はダメ!みんな平等にしなきゃ!」と普通に言いますからね。どの口が言ってるんだと(笑)。今は70過ぎていますが一生気づかずに死んで行くんでしょうね。自分のおかしさに全く気づけないんですよ。完全に機能不全家族でした。父と次男以外は発達障害で普通の家庭とは大きく違っていました。自分が家庭を作る番になっても何が正解なのかよく解らないんですよね。現在も何度目かの夫婦の危機を迎えています。

大変ですね。ご兄弟はどんな様子でしたか?

次男は家庭と学校生活のストレスで円形脱毛症になりましたが、大検を経て税理士になり現在は結婚して子供にも恵まれています。HSP気質がありながらも自分の特性を把握して人生設計し直せたんだと思いますね。三男は引きこもりで最近も死の縁を彷徨うような大きな病気をして大変な人生を送っています。現在も無職で生きるのがいっぱいいっぱいといった感じですね。

なるほど。学生生活はいかがでしたか?

中学はサッカー部に入っていました。当時キャプテン翼が流行っていた影響でみんなが入っていたので僕もつられて加入した形です。発達以外にDCDも併発していた僕はボールを足先で上手に扱う事が出来ず、上達が見込めない状態に苦痛に感じて1年程で退部してしまったんですよ。ところが、運動自体は得意で走り幅跳びが5メートル跳べた為、陸上部からスカウトが来たんです!スカウトされたはずなのに顧問の「サッカー部を辞めるような奴はうちにはいらない」の一言で追い返されてしまったのはショックでしたね。親から褒められて来なかった僕は承認欲求が強く、誰かから求められる事に飢えていました。

それはショックですね。

高校はスポーツの強豪の男子校だったので、運動部に入り込む余地は無く勉強に明け暮れる日々を送りました。1年生の入学時は普通コースだったのですが勉強を頑張った結果、2年生で特別クラスに上がる事になり、親や先生からの期待も大きくなりましたね。数学が得意だった僕は塾の先生に「東工大に行けるぞ!」と言われ有頂天でした。当時の僕にとって勉強の出来ない人=差別対象だったんです。今でこそおかしいと分かるのですが、当時は母の影響で差別意識をモロに引き継いでしまっていたんだと思います。定期テストで張り出される順位が上昇していく度、僕の自己肯定感は満たされて行きました。

自己肯定感を勉強で満たす発達さんは多いですね。大学には進学されたのでしょうか?

結果からいうと、有名私大に1つ受かっただけで国立も落ちてしまったんですね。当時の僕は浪人=差別対象ですから、受かった私大に行くしか無かったんです。大学には高校からの知り合いがいて、友人関係を上手に築けない僕はここでも金魚の糞をやっていましたね。第一志望の学校では無かった為、授業に身が入らず成績は最低でした。「よく4年で卒業出来たな」といった感じです。卒業後も10年くらい単位が足りない夢でうなされていましたね。

大学卒業後はどうされたのですか?

僕の学部は8割方大学院に進学するので僕も大学院に進学しました。入学直後から弁護士を志すようになり、司法試験の予備校に通い出したんですね。アスぺらしく正義感が強くて弁は立つ方だったので、母にも背中を押された形です。

大学院とのW通学は大変ですよね。

結局大学院は3ヶ月で退学してしまいました。その後司法試験を受けたのですが、2回落ちてしまって弁護士の夢も諦めた感じですね。2回目のテストは1回目より悪く、モチベーションの低下が顕著に出ていました。その後は仕事を転々とする生活の始まりでしたね。

おおっ、司法試験に10年掛かるのも納得のお話ですね。お仕事はいかがでしたか?

覚えているものだとビジネスホンの飛び込み営業でしょうか。電話代が安くなるという名目で7年リースで契約を取るのですが、正直言って騙しみたいな商売なんですよね(笑)。在籍していた時は知らなかったのですが、しょっちゅう社名が変わり、後に逮捕者が出ていましたね。僕は3ヶ月程で辞めたのですが、あそこに居たら人としてヤバかったな。と今になって思います。その後も派遣で工場に勤務したりしていましたが、30歳を目前にして社会人経験の少なさに焦りが出てきました。「下手に学歴があり、社会人経験が少ない人」というのが会社の最も避ける人材だと解っていたのでなんとか就職したかったんですよ

なるほど。その後はどうされたのでしょうか?

高学歴発達にありがちなパターンだと思うのですが、僕も同じように職歴があまり問われずペーパー試験を重視する公務員や団体を目指しました。ペーパーは全て受かるのに面接や体力テストで落ちるんですよ。なんとか現在の団体に引っかかる事が出来たので、ニ十歳の時からお付き合いしていた妻と籍を入れる運びになりました。司法試験やなかなか仕事が続かない事など別れの危機は多数ありましたが、無事結婚する事が出来ましたね。

おめでとうございます!長年付き合っていらっしゃったのですね。

はい、9年越しでの結婚です。「遅く入社したから、負けたくない」と思い仕事は頑張りましたよ。僕はADHDも持っているので事務ミスが多くてよく怒られていました。やらかした中で一番大きな出来事は営業車のボンネットに自分の鞄を置きっぱなしにして、そのまま走って落としてしまった事ですね。諸々言えない事だらけでバレたら確実にクビになっていたことも多いです(笑)。運の神様が味方してくれて、現在もなんとか就業を続ける事が出来ています。社内で営業に転身してからは全国で営業成績が1位になったりと評価もうなぎ登りでした。

凄いですね。大出世間違いなしですね!

はい、出世自体はしたんですよ。部下を統括するマネージャーになりました。問題は業務内容なんですよね。営業の時と違いマネジメントが入って来ると報連相や優先順調付けした効率の良い仕事が出来ない人は評価が落ちるんです。赴任してきた部長にターゲットとにされてパワハラを受け、鬱になりました。今まで得意だったはずの営業トークさえ苦手になり、お客様に「結局貴方は何が言いたいの?」と言われる始末でした。

辛いですね。そこからの精神科ですかね?

はい。部長の悪意に気づけなかったんですよね。「みや君、なんか鬱っぽいな。うちの奥さんも鬱で通院してるよ。精神科行ってみたらいいじゃない」の一言でイジメられてるにも関わらず「自分を理解してくれてなんて優しい人なんだ!」と舞い上がってしまいました。当時、保険商品を扱っていた僕が精神科に通院する事はタブーなんですよね。精神科に通院してしまうと保険に加入する事は出来なくなりますし、何よりお客様に合わせる顔が無くなります。毎日パニックになって鬱々とした日常を送るか薬を飲んで楽な障害者になるか、自分を天秤に掛けました。僕にとっては当時、障害者も差別対象だったんですよ(笑)。本当にガチガチの固定観念で過去の自分を思い出しても辛かったんだろうな〜と思いますね

当時はご自身が発達障害だという自覚はあったのでしょうか?

実は診断を受ける7年前に気づいてはいましたね。当時、お客様で「統合失調症の親の会」を主催されている方とお会いした時に、自分と境遇が非常に似ていたのです。「自分も統合失調ではないのか?」という疑念が沸々と湧き上がってきたんですよね。帰り道に寄った本屋のADHDのページで手が止まりました。「自分はまさにこれだ!全てのチェックリストに当てはまる…コンサータを飲んで楽になりたい!」すぐに病院に予約を入れて2ヶ月後に初診の予約を取りました。結果としてはADHDとASDでしたね。最初はストラテラだったのですが、吐き気が酷く飲み続けられるものでは無かった為、コンサータに変更になりました。覚醒した感じがまざまざと解り、これ無しで仕事が出来なくなりましたね。今も飲み忘れると眠気が酷いです。

診断が出てどのようにご自身は変わったのでしょうか?

目をみて話せるからASDではないよと当初先生は言っていましたが、仕事で営業していたから出来ただけなんですよね。自分をASDだと認める事で今までの失態の理由が解り、凄く生きやすくなりましたね。発達障害の当事者会や講演会などに足繁く通うようになりました。当初は発達障害に対して差別的な見方をしていましたが、当事者と触れ合ってみると通じる話が多く、5分もせず仲良くなりましたね。43年間自分の事が解らなくて本当に辛かったですが、やっと暗いトンネルの出口が見つかりました。よく頑張ってきたと自分を抱き締めてあげたい気持ちでいっぱいになりましたよ!

やっと人生の春が来たのですね

自分は楽しいのですが、厄介なもので今度は「発達障害に苦しむみんなを助けたい」と勘違いしてしまったんですね。ある人に「ネガティブになっている人を自分の体験を元に救いたいという考えは絶対に失敗する」と言われてしまい、当時は「正しい事をしているのに何故批判されなくてはいけないのだ!」とアスペ特有の思考回路で反発していました。結局、自分の障害を自己受容して自分が助かろうとしない限り幸せになる事は出来ないんですよね。当事者と触れ合う事でその方の言っていた事が腑に落ちるようになり、心の底から感謝するようになりました。主観の押し付けは時に暴力になります。当事者を通じて自分を知る事が出来て、今の自分は日々パワーアップしていますね。

最近はClubHouseにハマっているようですね

自助会で当事者の中で学べる事は学び尽くしたと思っていたのですが、ClubHouseで発信する事によって新たな学びがありましたね。フォロワーも1800人を超えました。当事者以外の方にも発達障害を知って貰える良いきっかけになったと思います。リアルタイムの音声配信なので今は土日を含めて毎朝5時に起きてクラブハウスのルームで一分間スピーチを行っています。

めっちゃ早起きですね!今悩んでいる事はなんですか?

夫婦関係ですね。今までも何度か危機はあったのですが、今回は今までで一番険悪な事態になっています。発達障害が発覚して以来、自助会や発達バーに入り浸ってタ飯も自宅で食べていなかったんですよ。長年友達が居なかった反動で人に関わりたくてどうしようもなかったんですね。妻がそんな事情を理解してくれる訳もなく、毎日午前様で浮気を疑われる事もありました。当時はまだコロナ前で給与の良さから目をつぶって貰っていましたが、コロナ禍で残業がなくなってテレワークになり、当然発達バーにもいけず、事態が急転し家庭内での不穏な空気が続いています。妻の側から考えると怒るのも当然です。家族を顧みない自分の行動が悪かったと重々反省しているので離婚には至らないよう務めたいと思いますね。

そうですね、ご家族を大切になさってください。ご自身の特性での強みは何でしょうか?

自己受容が出来たお陰か、どの層にもフラットに接する事が出来て、すぐ仲良くなれる所ですかね。全く緊張しないのは自分の良い部分だと思っています。傾聴を覚えたので主観を押し付けないようになりましたね。あとは、インタビューが上手で本質を掴むのが上手いと最近よく褒められます。カウンセリングの副業に活かせていきたいと思っています。僕は凹の部分を埋めようと43年間必死に努力して来たのですが無駄な努力をしていたんですよね。薄暗いトンネルを紡律ってきた人生に光が見えて、今は自分の事が大好きなんです!過去の自分みたいな人を変えるきっかけが与えられたらいいと思っていますね。

ありがとうございます!発達障害が解ってこんなに好転した方も珍しいと思います!人生を謳歌している様子が伝わってきたインタビューでした。FP1級を持つ、みやさんはカウンセラーの副業もされていますので、ご相談はこちらから!

編集後記

普段ADHDの人を中心にインタビューする事が多いので、ASD当事者のお話が聞けて新鮮だった。親の呪縛というのは恐ろしいもので、子供の思想や生活スタイルまで影響を与える。ACの多くは成人しても親の呪縛から逃れられなかった人達なので、いかに親の鎖を断ち切って行くかも今回のインタビューで見えてきた。自分を許容する事で今までの環境を許す事が出来そうだ。